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2011-12

日曜日もお仕事です

睡眠不足でフラフラになりながら喫茶店の一日マスター。昨日の皆既月食ではしゃぎ過ぎて、寝るタイミングを逃してしまった。店が忙しかったら勝手に目が覚めるんだけども、今日に限って暇だ。まあちょっと時雨れてるし、第一寒いし。ようやく12月を思わせる雰囲気になってきた。まだ年賀状に手を付けていない。どうしよう。

店の片付けが終わったら仕事。とにかく仕事。思ったよりも順調に進んでいるけれども、量があるだけにゴールが遠い。飛んできた球を打ち返すので精一杯だが、これが終われば…って毎回そう言ってる割には次があってバタバタしてるよなあ。

皆既月食チャレンジ

皆と別れて、急ぎバスに飛び乗った。バス停で上を見上げたら、もう部分月蝕は始まっている。マズい、あと少しで皆既月食が始まってしまう。こんなに急げ急げと念じながらバスに乗ったのは初めてだ。

時間ギリギリで事務所帰還。荷物を放り込んで三脚を引っ張り出し、近所の駐車場までダッシュ。携帯の明かりを頼りにセッティング、さあ月は何処だ、と思ったら真上にいらっしゃった。うわあ、一番撮影し辛いポジションだ。必死に場所を変えて、撮影しやすい場所を探る。どうにか良い場所を見つけて、後はひたすらシャッターを切るのみ。

僕のD7000には、18-200mmのレンズしか付いていない。上記の画像は、ズームを一杯に伸ばして撮影したものを50%に縮小したものだ。F5.6、1/4秒、ISO800。ピントが厳しかったので、Photoshopでアンシャープマスクを少しだけかけている。勿論レベル補正も。このレンズでは、これくらいが限界だろう。折角なので、色々と設定を変えながら撮影してみたが、これもなかなか厳しいものがあった。それより当たり前の話なのだが、固定したフレームからどんどん動いていく月が面白い。天体って凄いなあと、改めて感じさせられた。

皆既月食が終わった後の部分月蝕も撮影してみた。こちらは明かりも十分あるので鮮明に写っている。もっと暗い場所で観測していれば、皆既月食も綺麗に撮影出来たのかもしれない。まあそれは、次の楽しみにしておこうと思う。あと、良いレンズが欲しい。300mmくらいのを。

ハワイのNさん独壇場

店の片付けを済ませて、京阪三条へ。今日はアクセサリのOさん主催のトワ会だ。久々に色んなメンツと顔を合わせられるのと、今日はもう二つ喜ばしいニュースがある。一つは、ネイリストのMさんの創業。もう一つは、また時期が来たらお知らせしようと思う。

ともあれ、アートメイクのYさん、Yさんの妹さんでペーパークイリング作家のAさん、姿勢セラピストのOさん、ネイリストのMさん、ハワイの焼き菓子職人Nさん、元雑貨I社の営業Mさん、Oさんの旦那さん、そしてOさんと濃いメンバーが揃った。挨拶そっちのけで料理を貪り始める我々。

それにしても、ハワイのNさんとアクセサリのOさんの殴り合いはいつもガチだ。相変わらず旦那さんの目の前でも平気で剛速球を投げ続けるNさん、クロスカウンターを返すOさん。まさに男と男の殴り合いだ。Oさん女性だけど。今日の主役はネイルのMさんとOさんの筈なのに、完全にNさんが食ってる。留学志望の営業Mさんに「今アメリカに行っても仕事無いよ」と諭したり、割と真面目に過去の仕事話をしたり。とにかくNさんの話は面白い。多分、ここに居る誰よりも波乱万丈だ。そんなNさんも、ようやく来年初頭に出店の予定だそうだ。待ってましたよNさん!

それにしても、さっきから恐ろしい量の料理が運ばれてくる。胃が小さくなった僕にとっては、なかなかハードな量だ。これで終わりかな、と思った料理から3つ出てきた。ハラポンポンだ。そのままOさんの旦那さんと男談義したり何やりしたりしている内に22時過ぎ。解散と相成った。次はまた、どなたかの家でやっても良いかなと。

僕の知らない祖父の話

一日マスターも随分板についてきた。今日はやたらに寒いので、お客さんも少な目だ。合間合間に自分の仕事をしながら接客をする。そこへご来店頂いたのが、僕の父方の祖父と長らく仕事を共にした、天文のA先生。A先生は現役の小学校教諭でもある。たまたま今日は皆既月食と言う事もあり、折角なので色々と聞いてみたのだが、そこから意外な話を耳にした。祖父の話だ。

僕の祖父は、僕が5歳の頃に癌で他界した。記憶に残っているのは、微笑みながらロッキングチェアでゆらゆら揺れている姿、それくらいだった。オトンからも「酒癖が悪かった」くらいしか聞かされていない。祖父は、天文学者だった。

自宅に残されていたのは、数えきれないくらいのレンズと望遠鏡、見た事も無いような難しい数式ばかり書かれている専門書、多機能ながら結果が出るまでに数秒かかる電卓などなど。意味は解らないけど、何だか興奮するようなものばかり揃っていた。僕が初めてコンピュータの世界に触れた『NHK マイコン入門 57年度』もここで発見している。

A先生は、学生時代に苦労して貯めたお金で祖父から望遠鏡を買った話をしてくれた。祖父は学者でもあり、職人でもあった。何と、一から望遠鏡を作り上げるのだ。ものの無かった時代、それこそ血の滲むような努力や苦労を積み重ねて作り上げたであろう望遠鏡。売り物として作った望遠鏡も、息子のように大事に取り扱っていたとの事だった。

物心ついて、祖父の仕事を理解した時には既に長い年月が過ぎていた。今、こうやって僕も技術者の端くれとして生きている。あのマイコンの本があったお陰で、今こうやってコンピュータで仕事してるんよ、なんて話がしてみたかった。技術者や職人としての話を聞いてみたかった。A先生の話を聞きながら、ずっとそんな事ばかり考えていた。

Galaxian³ と僕の後悔

夜中にA君と話をしていて、たまたま『Galaxian³ 』の事を思い出した。1990年、大阪鶴見緑地公園。国際花と緑の博覧会、通称『花博』が開催された。その中で、一際大きな注目を浴びたのが、この『Galaxian³ 』。ナムコが前代未聞の超巨大アトラクションゲームだ。

当時中学生だった僕にとって、博覧会は憧れの的だった。小学校低学年時に開催された『つくば科学万博』。学研のひみつ図鑑で各パビリオンの魅力的な解説を見ては、沢山妄想して沢山溜息をついたものだ。日本中の物凄い技術が集まった、夢の国。それが今、ようやく手の届く場所にやってきた。家を出る前からエラいテンションで、会場に着いた時はもう凄い事になっていた記憶がある。

実は僕、花博には行ったのに『Galaxian³ 』には搭乗していない。理由は二つ。待ち時間が2時間を超えていた事と、とにかく沢山のパビリオンを体験したかった事。幼すぎて待つ事が出来なかった僕は、限られた時間で、花博のあらゆるものを体験したかったのだ。結果、多くのパビリオンを堪能し、大満足で家路についた。後悔などある筈もない、花博最高、とずっと思っていた。今日、上記の動画を目にするまでは。

360度に張り巡らされた16台の120インチモニター、リアルタイム生成されるポリゴンCG、最大28人同時協力プレイ、更には足場全体が稼働する体感仕様(オペレーターやシステム本体まで一緒に動く!)。可動域が広く、隣のプレーヤーを助ける事が出来るブラスターも協力感ををこれでもかと煽ってくれる。今まで見た、どんなアトラクションよりもショッキングだ。何故、何故これに乗らなかった。一番多感な時期である、中学生の頃だった事が余計に悔やまれる。

A君にも動画を見せてみたら、「凄い…これはホントに凄いよ…」と言葉を失っていた。「この頃から比べて、今の日本って、貧しくなったよね…」とも。このコメントには、かなり考えさせられるところがあった。

上のリンクは、開発者さん達の知られざる裏話。これ読んだら乗らなかった事が更に悔しくなった。裏側も前代未聞だったようだ。下のリンクは、『Galaxian³ 』の貴重な資料が掲載されている。仕様まで載ってるので、是非。


折角なので、据え置き6人プレイ用筐体でのスーパープレイも掲載してみる。当時の花博でも、凄腕プレーヤーは足繁く通ってたんやろうなあ。嗚呼もう幾ら羨んでも遊ぶ事は出来ない。伝説のアトラクション、『Galaxian³ 』よ永遠なれ。

双子の知能犯


しょっちゅう脱走する双子を監視(観察)すべく、お母さんがビデオカメラを設置したのだが…まさかの結末が。これホントに赤ちゃんか。プリズンブレイク。

16ページ一本勝負

今年最後のデカい山が、いよいよ牙を剥き始めた。恐らく、年越しの仕事になる。ただ、これさえ無事に終わってくれれば、今度こそようやく仕事から解放される。まあ、恐らくそれと同時にオカンの通いリハビリが始まるんだけども。今日の分は26時に終了。悪く無いペースだ。

いつもの同時並行作業

地図作って、サイト作って、名刺作って、チラシ作ってる。一つデザインを変えてしまうと、他のものも全部変えなければならないので色々慎重に調整する。土台さえしっかり出来上がってしまえば、後は何とかなる。一気に仕上げて間に合わせる。

また一つ肩の荷が下りた

10月頭から頑張っていたプロジェクトが無事完了したそうだ。当初は最後まで僕が作り続ける筈だったのだが、オカンの件で先方の所での打ち合わせをする時間が無くなってしまい、資料を全て渡して引き継いでもらう事になってしまった。大半完成はしていたのだが、それでも完成したものを見るとかなり手直しが入っている。随分ご迷惑をおかけしてしまい、本当に申し訳ないと思った。ただ、無事にリリース出来たので心の底から安堵している。

レゲー魂が集う

この所、すっかりゲーム付いている。東京に行って以来、ゲーム(それもレトロゲーム)の話が出来る仲間が爆発的に増えて、寝ても覚めてもそんな話をしている気がする。街で見かけたひどい4ボタン配置(MVSを他社筐体で)とか、グラディウスIIIの理不尽なバグ話とか、餓狼3の完成度を再評価とか、ワイドショットより正面攻撃のみこそ漢とか、そんなんばっかりだ。思い掛けない裏話も沢山聞けて、毎日楽しくて仕方ない。そんな中、物凄いtweetを発見した。ファミコンの黎明期を支えた開発者たちの座談だ。

  • ほりい なおき、佐藤誠市、岩崎啓眞の各氏によるファミコンのサードパーティー誕生時の話(Togetter)
    http://togetter.com/li/224538

これ、とんでもない話だ。タダで聞かせて貰って良いものだろうか。当時の、ホンモノの技術者たちによる全体未聞の手探りが、とんでもない傑作を産みだした事が解る。スターソルジャーの野沢プログラマーってホントに伝説のプログラマやったんやなあ。ハドソンもナムコもハンパ無い。その後、対談を見ていたNIGOROのサミエルさんがこう呟いている。熱い。

そう、この感情は嫉妬。技術屋が技術屋として君臨出来た時代に参加出来なかった事の嫉妬だ。だが、うちはそのやり方でゲームを作り続けてみせるぜ。Wii版ラムラナのスタッフロールの一番上は、プログラマなんだよ。

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