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クリスマスなのにゲーム談義

  • 2010-12-24 (金) 0:35
  • 日常

メシ食いながらもずっと話す。

クリスマスイブというのにA君が来訪。一緒に昼食を食って、仕事をする。一緒に仕事をするのは2か月振りくらいか。進捗具合を見せて貰い、色々と意見を交わす。他社製のゲームなんかを触りながら、iPhoneでのアクションゲーム作りの難しさなんかを話し合った。夏頃にリリースの予定だが、やる事も沢山あるようで、しっかり気合を入れないとちょっとヤバいという話もしていた。

最近話題のKinectの話もした。主に上記の、先輩naoさんが作った動画についてだが。このワイヤフレームとミク、naoさんなんよなあと言う話になって笑った。相変わらずハンパ無い技術力よなあと二人で驚いていたが、「これ、何でも出来そうで実は弱点があるんよ、いずれみんなぶつかる壁やと思うんやけど、解る?」とA君が謎かけしてきた。しばらく考えたのだがギブアップ、答えは「走り回れない」。ハッとした。狭い部屋でプレイしていたら、歩き回る事すら困難なのだ。

さて、ようやく今日の本題に入る。『どうやったら面白いゲームを作れるか』。どうやら過去の作品について、どうやったらそんな『面白い』ゲームが作れるのかと質問を受けているらしい。正直、答えるのに困る質問だ。A君は典型的な『頭の回転が速いけど言葉にするのが苦手な人』なので、余計に困っているらしい。面白そうなので、二人でどうやって説明するか考えてみた。

以降、時系列でまとめずにダラダラ書く。どんどん脱線していくので注意。

身も蓋も無い言い方をすれば、色んな経験をして、色々考えて、色々試していくうちに『面白さ』に近づいていくんじゃないか、と。引き出しや視点が多ければ多いほど可能性は広がるという話だ。何の面白味も無い答えだし、ゲーム制作以外にも当てはまる話なのだが、端的に言えばこれが一番正解に近いと思う。でもこれじゃ、大抵の人は納得しないだろうし、質問者もガッカリするだろうなあという話なった。じゃあ、『面白さ』とは何なのか。

僕が最初に感じたA君のゲームの『面白さ』、それは操作の気持ち良さだった。左右の移動、慣性、ジャンプの軌道、カメラワーク。どれを取っても良く作り込まれていて、触っているだけで楽しい。今まで何度もプロトタイプを触らせて貰ったが、ロクにステージが出来ていない状態でもキャラクターを操作しているだけで気持ち良く、『面白い』のだ。学生時代、A君が「ジャンプの軌道ってホンマに大切なんよ」と言っていた事が思い出される。

操作の気持ち良さを語る上で、避けては通れない超名作『スーパーマリオブラザーズ』。ジャンプ中の微妙な左右操作について、やたら盛り上がった。『スーパーマリオ』以前のファミコンソフトで、こういう微妙なジャンプ制御が出来るゲームは無かったんじゃないか(後で調べてみると、自由度は低くなるが元祖はアーケード版『パックランド』らしい)。

メモ。

どうやってこの微妙な操作感は生まれたのか。A君が熱く語る。「当時のゲームはジャンプ中、操作が不能になる(ドンキーコング・アイスクライマーetc)か、地上を歩くのと同じ速度で制御する(スーパーアラビアンetc)ようになってたんよね。単純に考えたら、このどっちかの形でプログラムを組むのが自然やと思う。だから『スーパーマリオ』のジャンプは革命的」「この微調整、多分ジャンプ中に土管に横からひっかかった時に思いついて拘りだしたんじゃないかと思うんよ。そうせんと土管間近でジャンプした時、乗り越えられんやん?」と。おお、面白い推論だ。僕も昔はプログラミング小僧だったので、単純なジャンプ制御の件は想像出来たが、土管の話は思いつかなかった。

この他にもA君は、「スーパーマリオ時にダメージを食らうと、小さくなる時に少しだけ前にスクロールする」「マリオが直立している時にガニ股なのは、足元の当たり判定の端を解りやすく為」といった事を指摘した。こういう親切や気持ち良さって、多分直にゲームと触れ合えるプログラマ側に立ってないと見えてこないと思うし、簡単に調整出来ないと思う。『ゲームとコミュニケーションを取る』と言えば良いのか。

直にゲームと触れ合えるという事は、プログラマ側にとって最大のメリットとなり得る。仕様書に書かれている事が全てでは無いし、偶然やバグから生まれた技術だって山ほどある。A君のゲームも様々な対話や試行錯誤の上に成り立っている(プロトタイプをテストプレイし続けてイヤというほど感じられた)のだが、僕が指摘するまで当の本人は気付いていなかった。『当たり前』になり過ぎていて、作り込んでいるという事実に気付けなかったのだ。5年間も一人で作り続けたのに、当の本人は特別凄い事とは思っていなかった。ただ単に、『5年かかっただけ』なのだ。

『当たり前』は成長し続けると、やがてとんでもないハイレベルな『当たり前』に到達する。ここまで来てしまうと、人に「何でそんな事出来るん?」と聞かれても、答えられなくなるのだ。だって、それが『当たり前』なのだから。箸の持ち方も、九九の暗記も、毎日の料理も、ジャズのアドリブも、F1ドライバーのドライビングテクニックも、みんな『当たり前』の向こう側にある。どんな事でも『当たり前』になっている人は、強い。個人的な話だが、僕は人生を通じて、この『当たり前』をもっと増やし育てていきたいと思っている。

話を少し前に戻す。先程までプログラマ側からの『面白さ』について色々考えていたのだが、現代のコンシューマゲーム制作はほぼ全てが分業で、巨大なプロジェクトになればなるほどプログラマが調整をする機会は失われる。勝手にイジったら、他の部分に影響が出るかもしれないからだ。必然的に、企画側が主導権を握る形になる。こうなると、ストーリーやグラフィックがゲームのメインになりがちだ。それはそれで『面白さ』があると思うが、数十ドットの組み合わせで無限の妄想が出来る僕らオールドスクールゲーマーにとっては寂しい話だ。A君のようなスタイルを踏襲しようとするならば、プログラマ側に立った上で、1人またはごく少人数で作り上げなければならないのではないだろうか。絵も、音楽も、ストーリーも、勿論プログラムも。

A君が面白い事を言った。「良い曲が作れた時は、良いゲームが作れる」と。また、「ストーリーはいつも後から考える(ストーリー主導で作った事が無い)」とも。恐らく、こういう手順でゲーム開発をしている人は稀だし、真似出来る人間はそう多くないだろう。「こんな答えでええんかなあ…参考にならんよなあ…」とA君が自信無さげに言ったが、実際そうなんやし、これ以上どうにも説明出来へんのやから仕方無いやん?と答えると、「そうよなあ、しゃあないよなあ」と笑った。そんなもんなのだ。

以上、5時間ノンストップで話した内容だ。ちっともまとまっていないが、有意義な時間だった。

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